シリーズ・カラヤンを”聴く”


 はじめに

 恥ずかしながら....私はカラヤンに偏見がある。今思うと初対面があまり良くなかっと思う....

 「ヘルベルト・フォン・カラヤン」私がクラシック音楽に興味をもち始めた頃、クラシック音楽=カラヤン
(今でもそうか?)と言うほど超有名であり絶大な人気を誇っていた。初めてカラヤンのレコードを聴いた
のはチャイコフスキーの「悲愴」EMI盤であった。

 クラシック音楽で絶大な人気を誇るカラヤンのレコードを聴けば身も心もメロメロ
になるほど感動するに違いない!

 今から思えばとんでもない過剰な期待をもってレコード聴いた.....結果は大した満足感も得られず,
私は大きく落胆した(ついでながら現在でも「悲愴」はあまり好きな曲ではない)。

 そんな頃、宇野功芳氏のカラヤン批判の記事を読んでしまったのある!

 だからと言って私は「宇野氏が悪い」と言うつもりはない。彼の文章をどう受け取るか?無視するか?賛
同するか?は宇野氏が決めるとこでなく,私が決めることなのだから....

 そもそも偏見は好ましいことではない。と言ってもカラヤンのCDは膨大にありメジャー・レーベルの物
であれば廃盤の憂き目にあうことはほとんどない?そんな訳で気になりつつも後回しになっていた。

 そして私は気が付いた!

 図書館で借りれば懐が痛むことは無いし、カラヤン印のCDは数多くあるはずだ! それを実行に移し、
借りてきたカラヤン印のCDの感想を書き綴った。

 こんな調子でシリーズ・カラヤンを”聴く”ははじまった。


 ここで念のために私のスタンスを表明しておく。

 カラヤンの悪口を言うなんて許せない。カラヤンを批判するヤツにはウィルス・メールを送りつける。掲
示板でボコボコにしてやる。そんな物騒な挑戦は迷惑である、売られた喧嘩を買うつもりは毛頭ない。

 そもそも人には好みがある。例えば私はマヨネーズが大嫌いである。この世になくても構わない。しかし
マヨネーズそのものを憎む気持ちはまったくない。さらに、マヨネーズが大好きなマヨラーを批判するつも
りもない。これは100%趣味趣向の問題なのである。
 同じようにカラヤンが大好きな人が居て、よく分からない人が居て、大嫌いな人が居る。これが普通では
ないだろうか?

 そもそも私はカラヤンの演奏を評論するつもりはない、私の書いたのはただの感想文であり、私がカラ
ヤン印のCDを聴いて何を感じ、何を思ったのかをおもしろおかしく書き綴った雑文なのである。

 そんな文章であるが感想文としてカラヤンに対して批判的な文章が書かれている。私はカラヤンのファン
に喧嘩を売るつもりはないし、気分を悪くさせるつもりもない。

 だから、カラヤンのファンの方は以下の文章は読まないように
お願いする!つまり読むな!
である。







シリーズ・カラヤンを”聴く” その1
 スメタナ 交響詩「わが祖国」よりモルダウ
 ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団
 録音:1985年
 Deutsche Grammophon

 まず感じるのがモルダウ河の主題でテンポや音の強弱が自在な伸び縮みを伴なってロマンティクに感情
をたっぷりと湛え歌われていることである。しかも感情に溺れて下品になることなくマイルドな美しさも放って
いる。さらにマイルドさばかりでなく、スパイシーな刺激も怠らない。
 「村の婚礼」ではリズムの刻みにアクセントをいれる刺激をきかせ。「月の光〜水の精の踊り」では神秘
的な震えるような繊細な響きで聴き手を包み込む。「聖ヨハネの急流」では打楽器の効果的な扱いを披露し。
「モルダウ河のテーマ」が再度登場するときはテンポを落として高らかに歌い上げ望郷の念を強く訴える。
そしてコーダーでは後ろ髪引かれるような名残を表し、最後は輝かしい強奏で締め括っている。

 ウィーン・フィルの充実した響とみごとな起伏を織り込んだ演奏に感じた。

 しかし、私にはこの起伏が計算された演出に感じられた。そして計算された冷たさを覆い隠すためマイル
ドな味付けと適度な刺激もほどこした。そんな演出がミエミエのワザとらしい演奏に聴こえるのであった。

 こう聴こえるのが、私の偏見なのだろうか???




シリーズ・カラヤンを”聴く” その2
 チャイコフスキー 交響曲 第6番 「悲愴」を聴く
 ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団
 録音:1984年
 Deutsche Grammophon

 カラヤンの悲愴を聴いた。この録音を選んだのは玉木正之氏の著書「音楽は嫌い、歌が好き」小学館文庫
の中でカラヤンの資質が読み取れると記述してあったのがキッカケである。

 この曲は第1楽章の甘美なメロディーと激しく交錯する激情。第二楽章の穏やかなワルツ。第3楽章のパ
ワフルな行進。第4楽章の悲劇の絶唱。
 少々大袈裟に区別したが、これらの性格を、カラヤンは明確に、明瞭に、ありありと描いてゆく。さらにウィー
ン・フィルのしたたるような艶やかなサウンドが加わる。

 しかし、聴き進むとバカバカしさを感じる。

 「この曲はこんなに美しいんだぞ!こんなに悲しいんだぞ!こんなに激しいんだぞ!」

 懇切丁寧に、あからさまに説明されると

 「バカにするな!そんなこと、わかっとる!」と反発したくなる。

 こう感じるのが、私の偏見なのだろうか???




シリーズ・カラヤンを”聴く” その3
 モーツァルト 交響曲 第41番 「ジュピター」
 ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団
 録音:1963年
 DECCA

 カラヤンのジュピターを聴いた。

 手連手管と言うのか?レガート,テヌート,内声部の強調といろいろな仕掛けが聞き取れた。しかし私
にはそれらが余計な表情付けに聞こえ違和感を覚えた。

 こう感じてしまうのが、私の偏見なのだろうか???




シリーズ・カラヤンを”聴く” その4
 ベートーヴェン 交響曲 第5番 「運命」
 ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団
 録音:1962年
 Deutsche Grammophon

 その昔、宇野功芳氏はカラヤンの「運命」を「スポーツ・カーでハイ・スピードで飛ばすような云々」と否定
的意味で表現されていた。私は的を射た表現だと思う。それも宇野氏と違い肯定的意味として感じられた。

 スポーツ・カーは車の”走る・曲がる・止まる”という基本性能を突き詰め車で”俊敏な加速,オン・ザ・レー
ルのハンドリング,安定したブレーキングで車をを操作する喜びを与えてくれる。

 カラヤンの「運命」は、そんな感覚だった。ビシッと決まる合奏、重量感のある響き、畳み掛ける迫力!

 初めてカラヤンの演奏に好感がもてた!

 しかし、そう感じたのは第1楽章までだった.....第2楽章以降は”重い加速,ふにゃふにゃのハンドリン
グ,鈍いブレーキング!?そんな感覚だった。凡演どころか鈍い演奏に聞こえた。

 こう感じるのが、私の偏見なのだろうか???




●シリーズ・カラヤンを”聴く” その5
 ブルックナー 交響曲 第9番 
 ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団
 録音:1966年
 Deutsche Grammophon

 ブルックーの第9である。第9に限らないがブルックナーの交響曲はブラス・セッションが豪快に鳴り響
く。このCDを聴き始めて、ブラス・セッションの響きが気になった。慣れの問題か?と聴き進めたが、次第
に耳障りになってきた。さらに苦痛に感じるようになった。
 
 こう感じるのが、私の偏見なのだろうか???




●シリーズ・カラヤンを”聴く” その6
 ブラームス 交響曲 第1番 
 ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団
 録音:1987年
 Deutsche Grammophon

 じつに堂々とした、そして雄大なオケの響きである。重量感のある響きは重く引きずることがなく、常
に突き進む威力がある。オケが激しく交錯したり、パワー全開のフォルティシモもブル9のようにうるさくな
らいな。またベト5のように最後までだれることがなかった。

 最後まで好感をもって聴き通すことができた!




●シリーズ・カラヤンを”聴く” その7
 ホルスト 組曲「惑星」
 ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団
 録音:1961年
 DECCA

 盛り上がる部分はオケを豪快に鳴らし、美しい部分は華麗に、神秘的な部分は打ち震えるように、歌う部
分は詩情たっぷりに、リズムは切れ味鋭く、etc....カラヤンらしい?直情的な表現であった。

 しかし、不思議なことに「モルダウ」や「悲愴」のように嫌味に感じられず素直に楽しめた。盛り上がる部分
の金管もウルサク感じられず素直に迫力としれ感じられた。

 そしてなによりも最後まで好感をもって楽しく聴き通すことができた!




●シリーズ・カラヤンを”聴く” その8
 ベートーヴェン 交響曲 第3番 「英雄」 
 ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団
 録音:1983年
 Deutsche Grammophon

 聞き始めたとき、その速めのテンポに違和感を覚えた。セカセカと速いだけで速いテンポによって覇気が
生まれるとか畳み掛ける迫力が生じるといったプラスの効果が感じられなかったのである。オケの響きは大
変美しいのが残念ながら、それがマイナスに働いてしまう。
 「英雄」は良い意味で押しが強く、くどい音楽ある。第1楽章の主題展開部がその好例で、二つの主題をい
じくりまわし、こねまわし、くどくど長大な展開部を構築している。 このような、くどくど長大な展開部を美しい
サウンドで奏でられると、押しの強さ、くどさが後退しているように感じる。その替わり何か新しい発見やヒラ
メキがあればよいが、そのようなものは感じられず中途半端な印象であった。

 また全体的に大きく盛り上がるときのブラス・セッションはうるさく感じられ、興ざめしてしまうでのであった。

 こう感じるのが、私の偏見なのだろうか???




 おわりに

 カラヤンのCDを幾つか聴いたが、まず感じたのが”かなり個性の強い演奏であった”ことである。
その個性の強さが、私にとって好感がもてた演奏と、そうでない演奏につながったと思う。結果的に好感が持
てなかった演奏が多かったが、さして驚くほどのことではなかった。

 私が贔屓にしているペーター・マークやコリン・デイヴィスのCDだってハズレが多いのである。しかしアタリが
出たときの感動、感銘、コーフンの大きさや深さが絶大なのである。

 ついでながアンチ・カラヤン派の主張する”低俗・外面的・精神性の欠如”といった部分については私には判
断がつかなかった。


 
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