Rhapsody in Kunya
2003年 9月29日(月)
27日金曜日、今年はじてめボクシングのTV中継を観た。辰吉丈一郎VSフリオ・セザール・アビラ戦である。
私は辰吉ファンでないのでズバリ言う。
残念ながら勝ってしまった。
負ければキッパリさっぱりと現役引退できたのに・・・・しかもケガによる言い訳も出来る・・・・
ケガによる調整不足を割り引いても内容の悪い試合である。まず辰吉の様子からヤル気が感じられない、また
ピンチで困惑する表情がありありと見て取れた。これでは調整不足以前の問題である。
私には引退のキッカケを失った残念な試合に思えた。
2003年 9月28日(日)
これた先輩の築いた足跡があり2003年陸上世界選手権パリ大会で末續慎吾が200Mで銅メダル。男子4×10
0M,4×400M両リレーの決勝出場があるのである。
そして来年はアテネ五輪! 私たちにさらなる感動を!
2003年 9月25日(木)
2001年は世界陸上エドモント大会の注目のひとつに年朝原宣治の決勝進出があった。この年朝原は100Mの
自己ベストを更新10秒02まで記録を伸ばした。世界陸上エドモントン大会は夢の9秒台と決勝進出の期待された。
しかし、アトランタ五輪,アテネ世界選手権と続き準決勝の
壁を破ることは出来なかった。
200Mは末續慎吾,藤本俊之,松田 亮がエントリー全員が1次予選を通過,末續慎吾,藤本俊之は準決勝まで
進めたが決勝進出はならなかった。またしても短距離個人種目は準決勝が大きな壁となった・・・・
4×100Mリレーは松田,末續,藤本,朝原のメンバーで予選を38秒67,準決勝を38秒54でシドニー五輪に続い
て世界大会連続決勝進出を果たしたが・・・・
またしても第3走者でアクシデントが発生した。第3走者の藤本に隣のレーンの選手の腕が接触し、アンカー
の朝原へのバトンパスにロスが生じてしまい。38秒96の5位にとどまった。
2003年 9月22日(火)
100Mは伊東浩司,川畑伸吾,小島茂之がエントリー、川畑が2次予選、伊東が準決勝まで進んだが決勝進出
はならなかった。
200M伊東浩司,末續慎吾がエントリーともに準決勝まで進んだが決勝進出はならなかった。しかし準決勝は伊
東,末續が同じ組のレースとなり日本人が準決勝で競り合う姿が印象的であった。シドニーでも準決勝が大きな壁
となった。
4×100Mリレーは川畑,伊東,末續,朝原のオーダーで予選を38秒52,準決勝で38秒31日本タイ
記録で決勝進出を果たした。
4×400Mリレーは苅部,小坂田,田端,山村のオーダーで予選を通過したが準決勝で選手と接触バトンを落とす
アクシデントで決勝進出はならなかった。
4×100Mリレー決勝は1走を務めた川畑が足を痛めため小島茂之にオーダー変更をして挑んだ。ところが3走の
末續がレース中に足を痛めるアクシデントが発生!アンカー朝原が懸命にアクシデントをカバーして38秒66で6位
でフィニッシュした。
末續が足を引きずりながらバトンを渡す姿、朝原のアクシデントをカバーしたバトンの受け取りと力走で勝ち取った
6位入賞は感動的だった。
2003年 9月22日(月)
前年の100M10秒00の記録もあり’99年の世界陸上セビリア大会で伊東浩司選手の活躍が期待された。しか
し100M、200Mともに準決勝の壁を破るには至らなかった。世界の壁は厚く高いかった・・・・
2000年はシドニー五輪の年である。この年、東海大学の末續慎吾は100Mで10秒19、200Mで20秒26の好
記録を打ちたて五輪代表の座をつかんだ。
また、100Mで10秒11の好記録を出した川畑伸吾,故障から復帰してきた朝原宣治、日本のエース伊東浩司と
4×100Mリレーでの好記録。さらに4×400Mリレーでも全員が45秒台のメンバー 小坂田 淳45.05 刈部俊二
45.57 小坂田 淳45.05 田端健児45.73 山村貴彦45.03が揃い両リレーの決勝進出が大いに期待された。
2003年 9月21日(日)
’98年は日本短距界にとって大きな話題となったのがアジア大会での100Mの記録である。
この年の100Mの記録を10秒08の日本タイ記録,200Mで20秒16の日本新記録まで記録を伸ばし
た伊東浩司がアジア大会100M準決勝で10秒00の記録を打ちたてのである。
この時は準決勝でもあり残り5Mを流した感じであった。
タラレバで言えば残り5で流さなければ、フィニッシュで胸を突き出せば夢の9秒台に達していた・・・・かもしれない
のである。
2003年 9月16日(火)
’97年の世界陸上アテネ大会は日本短距離陣にとって試練の大会となった。
100Mの日本記録を10秒08と10秒10の壁を突破した朝原宣治は決勝進出が期待されたが準決勝で敗退
200Mの日本記録を20秒29までに縮めた伊東浩司も準決勝で敗退となった。世界大会で連続して決勝進出
を続けたリレーも準決勝で敗退となった。
特に4×100Mリレーは井上 悟・伊東浩司・土江寛裕・朝原宣治は予選で38秒44,
準決勝で38秒31と日本新記録を連発したが準決勝で敗退となった。
2003年 9月15日(月)
’96年はアトランタ五輪の年であった。100Mで朝原宣治、200Mで伊東浩司が準決勝まで進出した。バルセロナ
に続いて連続決勝進出が期待された4×100Mリレーはバトン・パスで失格となった。
しかし、4×400Mリレーで苅部俊二・伊東浩司・小坂田淳・大森盛一
の選考逃げ切りオーダーで5位入賞を果たしている。タイムは3分00秒76の日本新記録であった。
世界レベルの大会では4×100もしくは4×400どちらかのリレーが決勝進出を続いている。両リレーともに決勝進出
するのは2003年まで待たなければならない。
2003年 9月14日(日)
’93年朝原宣治が100Mで10秒19の日本記録を樹立した。’94年伊東浩司が200Mで20秒44
の日本記録を樹立した。両者共に日本スプリント界を代表する名選手の台頭である。
’95年は世界選手権イエテボリ大会である。
日本は4×100Mリレーで決勝進出を果たした。鈴木久嗣、伊東浩司、井上 悟、伊藤義剛
のメンバーで5位。準決勝で38秒67の日本記録を更新している。
五輪、世界選手権と4×100Mリレーで決勝進出を果たしたのである。日本の短距離陣は世界の舞台で戦える証明
である。
2003年 9月13日(土)
話は前後するが’91年に日本大学の井上 悟が100Mで10秒20の日本記録を樹立した。
’92年はバルセロナ五輪の年である。前年の世界選手権東京大会で決勝進出を果たした高野 進はバルセロナ
五輪でも決勝進出を果たした。走りは前年の世界選手権の方がキレがあったが持ち前の勝負強さで決勝進出であっ
た。結果は8位であったが世界大会2回連続の決勝進出は感動的であった。
それと4×100Mリレーの決勝進出である。青戸慎司、鈴木久嗣、井上 悟、杉本龍勇
のメンバーで38秒77で6位入賞を果たした。それぞれ五輪での決勝進出は60年ぶりの快挙であった。
2003年 9月12日(金)
’91年の陸上日本選手権は世界選手権の選考会を兼ねていた。世界選手権でのファイナ・リストを狙う高野 進
は400M44秒78の日本記録を樹立する。高野 進のすばらしい所は大舞台で自己ベスト、あるいは
それに近い記録出す調整力にある。
東京で開催される世界選手権での期待が高まった。
そして高野 進は決勝進出を果たした。1932年ロサンゼルス五輪の吉岡隆徳以来59年ぶりの快挙を達成した
のである。
レースはラスト80Mまで混戦であった。しかし、ここから自力の差が出て高野は7位フィニッシュだった。私のその
積極果敢な走りをTVで観た打ち震えた。
2003年 9月10日(水)
惜しくも決勝進出を逃した高野 進は’91年の世界選手権東京大会、’92年の五輪バルセロナ大会っでのファイナ・
リスト目指すことになった。年齢的にラスト・チャンスと考えていただろう。
新たな模索として’89年と’90年は得意の400M走を封印して100Mと200Mのレースを中心に走り’90年のアジア
大会では得意の400Mに出場しないで200Mに出場し日本人初優勝を遂げた。
’90年10月東京農大二高の宮田英明が100Mの日本記録を更新した10秒27
100/1秒の更新であったが日本記録保持者は高校生の手に移った。
2003年 9月 8日(月)
第1走者は、日本記録保持者の青戸慎司,第2走者は加速重視で200Mのスペシャリスト山内健二,
第3走者は好調の栗原浩司,アンカーは驚きの高野 進だった。
400Mで44秒90の日本新を出し短距離陣のリーダー的存在でもあった。バトン・パスに不安が残るが走力で
カバーする作戦である。
結果は見事38秒90日本記録を一気に0秒41更新したのであった。
しかし・・・・惜しくも決勝進出はならなかった。これもタラレバで言えば違う組だったら、準決勝が3着+4
着以下記録上位2チームが通過だったら、決勝進出だったのである。
とは言え日本短距離陣の決勝進出が手の届く所までレベル・アップがしていることが証明できた価値ある五輪
だった。
2003年 9月 7日(日)
’88年ソウル五輪での目標は400Mリレーの決勝進出と400M高野 進の決勝進出であった。
高野は’86年のアジア大会の400Mで45秒00のタイムで優勝。タイム的に世界のファイナリストの実力を示し
ていた。’87年の世界選手権では故障のため力を発揮できなかったが、ソウル五輪では決勝進出を狙っていた。
結果は44秒90初の44秒台を記録したが・・・・惜しくも準決勝で涙を呑んだ。タラレバで言えば違う組だった
ら、準決勝が3着+4着以下記録上位者2名が通過だったら、決勝進出だったのである。
400Mリレーは松原 薫,青戸慎司,栗原浩司,笠原隆弘のオーダーで挑み39秒70辛うじて準決
勝に進んだ。タイム的に実力を出し切れてないと判断したコーチ陣は準決勝でメンバー変更をして準決勝に挑ん
だのであった。
2003年 9月 6日(土)
’88年五輪イヤーである。不破・中道の牽引によって日本陸上短距離界のレベルは向上した。4年前にロス五輪
のときは参加標準記録を突破するれ即代表だった100mは、この年標準記録突破者が6〜7名(だったと記憶して
いる)に増加した。
代表選考の日本選手権は熾烈な争いとなり、リレー・メンバーを含め代表となったのは松原 薫,青戸慎司,栗原
浩司,笠原隆弘,大沢知宏であった。不破弘樹も中道貴之も落選している。
そして9月100mで青戸慎司が10秒28日本新記録を樹立することとなる。
不破弘樹の日本記録10秒33を0秒05更新、初めて10秒30の壁を破ったのである。
2003年 9月 5日(金)
’87年のインター・ハイ100mの結果は夜の全国ニュースに取り上げられるほどの現象となっていた。この中道
貴之の快進撃に触発されたのか?この年の9月100mで不破弘樹が10秒33の日本新記録
を樹立することとなる。
それから中道貴之の進路も注目の的となったラグビーか?陸上か?二足のわらじか?注目された彼の下した結
論は陸上であった。そして短距離の名門・日本大学へと進学したのであった。
しかし・・・・中道貴之は学生レベルでは、そこその成績を残すが世界選手権・五輪の代表に選ばれること
はなかった。彼に何があったのか?私は彼を知る立場ないので詳しくは知らないが、あれほどあふれる才能の持
ち主であっても、その才能を開花させることが出来なかったようである。
陸上競技の難しさなのであろうか?
2003年 9月 4日(木)
この快進撃に日本陸連は日本選手権3位の実績と将来性からローマで開催される世界選手権にリレー・メン
バーとして派遣しようと中道に打診するが、中道はラグビーの練習を優先して、この要請を辞退している。しかし
インター・ハイには出場する。
この年インター・ハイ陸上100mの優秀候補は2生ながら前年100,200mを制しアジア大会200mでメダル
を獲得している名倉 雅弥
(坂戸西 )と同じ埼玉県で県大会・ブロック大会で好勝負を展開している
大沢知宏(松山)であった。そこに中道貴之(木本)彗星の如く現れ。インター・ハイでの三つ巴の対決
は空前の盛り上がりとなった。
北海道で行なわれたインター・ハイ100M決勝は低温・向かい風の悪天候に見舞われた。これでは記録は期
待できない。興味は勝負一点に絞られた。
1位10秒90大沢知宏(松山)
2位10秒95名倉 雅弥(坂戸西
)
3位11秒11中道貴之(木本)
2003年 9月 3日(水)
1987年5月花園まで経験した俊足のラガーマンは、初めて陸上100Mの競技会に出場した。スパイクシューズ
は借り物。スターティングブロックの動かし方が分からないので、前の選手がセットしたまま使った。
俊足ぶりを発揮し、ダントツの1位。記録はなんと日本高校新記録10秒2!(手動計時)
驚きと衝撃のニュースがスポーツ界を震撼させた。「ラグビー選手が高校新!」・・・三重県木本高校のラグビー選
手中道貴之が生まれて始めて走った100mで「10秒2」をマークしたというのだ。
急遽、6月の日本選手権に出場。日本選手権100M 3位!
7月の三重県選手権で優勝10秒1(手動)日本タイ記録をマーク。
中道貴之の快進撃に日本中が注目した。マスコミの注目度は膨れ上がった。
2003年 9月 2日(火)
1981年11月陸上100mの中学記録を11秒07から10秒75まで一気にコンマ3秒も短縮記録が誕生した。
記録を樹立したのは野球部に席を置く不破弘樹であった。
1982年不破は名門東京農大二高に進学。1年生で臨んだインターハイ100mで2位であったが、10秒52の
高校新記録(優勝した米内 聡が10秒48の高校新)をマーク。通年なら優勝していた記録である。
翌1983年のインターハイで不破選手は100m,200m,1600mRの3冠を達成。100mは10秒46の高校新
記録を樹立。
1984年には不破は日本タイ記録10秒34まで記録を伸ばした。五輪参加標準記録録を突破した
ため、インターハイを欠場しロス五輪出場を果たしのであった。
今年、末續慎吾が世界選手権で銅メダルを獲得したが日本陸上短距離界の飛躍は不破弘樹の台頭がキッカケ
であった。
2003年 9月 1日(月)
陸上世界選手権パリ大会が終了した。最終日の女子マラソンは日本が2位,3位、4位となり、当然団体も1位と
なりその強さを見せつけた。男子4×100M,4×400M両リレーとも決勝に残った。特に最終種目である4×40
0Mリレーに残ったのは嬉しかった。
トップページのマーキーが
「末續選手の銅メダル!だけなのは不公平である。室伏選手や野口選手もメダルを獲得し
ているではないか!」
そんなメールを頂いた。不公平だって!?とんだ勘違いである。そもそも、このホームページは公平を語るホーム
ページではない。私個人の趣味と嗜好を語るホームページである。私がかつて短距離をやっていたので末續選手
の銅メダル獲得が特別うれしいのである。