Rhapsody in Kunya


2007年 5月31日(木)

●マーラー:交響曲 第9&10番
 ガリー・ベルティーニ/指揮
 ケルン放送交響楽団
 録音:1991年2月19−20日
 EAST WORLD TOCE-9222/23


 故ベルティーニのマーラーを聴くことができた。明るい響きにギョッとした。マーラーの私小説的なドロドロした交錯した感情の発露が
すっきり仕上げている。それでも物足りないと感じないのは緻密に練り上げられた仕上げのよさからであろう。
 このCDの不満交響曲第9番の後に第10番が収録されていることである。消え去るように終わる第9の余韻に浸るまもなく第10番が
始まる。気に入らなければプログラム・プレイで対処しろだって?


2007年 5月30日(水)

●モーツァルト:交響曲 第39〜41番
        ファゴット協奏曲
 ジェイン・ゴーワー(Fg)
 アニマ・エテルナ(古楽器)
 ヨス・ファン・インマゼール/指揮
 Zig-zag Territoires ZZT030501

 同じコンビのシューベルトの交響曲がよかったのモーツァルトの交響曲を収録したCDを聴いてみた。
困ったことに非常に印象が悪かった。アーノンクールの過激な表現。ブリュッヘンの古楽器オケの低いピッチ響きにも拒否反応を示さなかったが、これには強い拒否反応に襲われた。低いピッチ、平坦な弦の響き。

 聴いていて腹立たしく思ったほどである。シューベルトはよかったのに?これを好きになる日が来るのだろうか???


2007年 5月 5日(土)

●マーラー 交響曲 第9番
 オットー・クレンペラー/指揮
 ニュー・フィルハーモニア管弦楽団
 録音:1967年
 EMI 7243 5 67036 2 9

 マーラーの交響曲第九番は深い音楽である。しかしその深さは私小説的でもある。

 生きることの苦悩とすばらしさ。死への恐怖と憧れ。悩み苦しむことを皮肉り笑う。妻への愛と憎しみ。そんな相反する要素が絡まりあいながら調和することなく消えてゆく・・・・そんな音楽である。

 最近入手したクレンペラー指揮の録音を聴くとマーラーが楽譜に書き記した私小説的な感情の発露をバッサリ斬り捨て、ただただ機械的に楽譜に記載されて音符を冷徹に音に変換している。そんな風に聴こえるのである。

 ところが一見(聴)私小説的な感情の発露をバッサリ斬り捨ているはずなのに、聴き進めるとマーラーの私小説的な感情が伝わってくるのである。しかも苦悩、恐怖、皮肉といった感情がより強く伝わってくるのである。音楽を聴きながら恐い思いをする。めったにない体験である。

 おそらくクレンペラーの演奏は作曲家の意図(頭の中でイメージした音楽を)とは違う演奏になっているだろう。クレンペラーの演奏を聴いていると作曲家の意図に忠実でなくても音楽は成立する。そんな発見があった。


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